特発性過眠症と猫と

特発性過眠症と診断された筆者の病気の経緯と、一緒に暮らしている2匹の猫との暮らしの日記。終わりたいけれど、生きなくては、とも思う心の不安定な様を不定期更新しています。

H24・4から6年が経ちました|特発性過眠症と猫と

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薬の後発品と先発品は同じものではない。

安くて効果は同じと、宣伝されているが、

製造方法や添加剤などは異なるものなのだ。

 

薬価は先発品と比べ、半分以下のものも存在する。

どれを置くかは薬局の判断なのだが、

薬価が低いというのは経済的に助かる。

わたしは、多量の薬を処方されている為、

後発品があるものは後発品にしていたが、

前回、全て先発品に戻した。

 

先入観なしに、後発品は薬の効いている時間が先発より短いと感じる。

安いことは魅力だが、せっかく服用するのだからきちんと効果を得たい。

 

高血圧症などと比べてニーズが少ないからか、

ベタナミンリタリンは後発品は存在しない。

したとしてもこれは変えるつもりはない。

やはり先発品が良い。

 

近頃は、オーソライズジェネリックという

添加物も製造方法も全て同じとされている後発品があると

ネットで見たことがあるが、薬局で勧められたこともない。

 

薬効が本当に同等で、

少しでも安い、

なら試してみても良いとも思うが、

薬局で特に説明も宣伝もないので、出回ってはいないのかも知れない。

 

デパスを先発に戻した。

ジェイゾロフトも、あまりの状態の悪さに2Tに増量し先発に戻した。

DR.はそっちの方が状態悪いの?とあっさり増量してくれた。

以前ひどい抑鬱の時にゾロフトは効果があった。

今はどうかわからない。

 眠剤ハルシオン

服用は殆どしていないが 、これも変えるつもりは無い。

 

先発に戻して効果は?

 

後発品は使うべきでは無い!などと断言する程には

違いは感じない。

藥、効いているんだな、と感じるが、

思い込みなのかもしれないなあ、なんて

何だか甚だ頼りないとも思うが・・・

 

過眠症は相変わらず、のらりくらりと

私の中に常駐している。

日中落ちそうになる時はあるが

ベタを1T服用すれば抑える事が出来ている。

 

朝も寝坊はしつつも、何とかギリギリクリアー出来ていて

4・5月、まあまあ調子は良い方なのかも知れないと思う。

来週は診察日なのだが、この分だと行けそうな感じだ。

 

ただ、休みの前の平日は帰宅後に

本当にホッとするのだろうと思う。

猫のご飯やトイレを整えたあと、

かなりの割合でそのまま床に行き倒れている。

痛いか寒いかで、その日の夜中、

もしくは明け方に倒れていたことに気づく。

 

特発性過眠症は、沢山寝ても目覚めスッキリ、

という事は少ない。

大概、目覚めて残る眠みと酷い頭痛に顔をしかめる。

安心して眠ったとしても、寝た場所が床だからでは無い。

過眠症ならではの頭痛に頭を押さえ、

のそのそと寝床へ向かう。

 

 

 

 

 

通勤中うとうと眠っていて、肩を叩かれたり、

昼寝中タイマーをかけて寝ていると、

時間前に肩をゆすられたり。

幻覚?なのか寝ぼけているのかわからないが近頃そんなことがよくある。

 

パートナーが、起きなきゃダメだよと合図しているのか。

パートナーの声が聞こえる時もある。

 

白昼夢。

 

心を閉ざして2年経つ。

精神に支障を来たしているのか、と思いながらも

でも、それらはわたしが思い込んだ『パートナーの仕業』としてもいいかな、

その方が素敵で楽しいじゃない?と思う。

 

偶然か気のせいだよ、で済ませられる話だが、

なんとなく不思議なことってあるのではないかなぁ、

まぁ、偶然でも気のせいだったとしても、

人に迷惑をかけない限り信じてもいいのではないかな、なんて。

姿は見えなくても、近くに思う人がいてくれたら。

 

他人には真剣な顔で言ってはいけないやつですね

 

 

 

やらないこと。やり続けること。

何かをすれば、何かが生まれる。何かが始まる。跡が残る。コロン。

また何かをすれば、2つ目の何かが生まれ、2つの「やったこと」を結んだ線(=道)ができる。

何かをし続けることで、道ができあがり、その道の両側には自らが生み出した有形無形の成果物が建造物のように立ち並んでゆく。

その風景やありようは、あとからその道に入って来たり、迷い込んできた人たちを刺激し、助け、時には救い導くことだってある。

もしいつか倒れてしまって行き止まりになっても、誰かが志を継ぎ、道は色や雰囲気を変えながらいつまでもいつまでも続いていく。

 

世の中はそうした道が縦横無尽に走ってできている大きな街のようなものなのだろう。

時に交差し、合流し、並走し、広くなったり狭くなったり、荒れたり整備されたりしながら、形なき人間の社会やこころの世界を開拓しつなげてゆくのだ。

 

今、わたしの道は完全に行き止まりになっている。

でも、それはわたしが道を作ろうとしないからだ。

大地は今もわたしを拒むことなく目の前に広がっている。道具だって高性能ではないけれど手元に揃っている。

道の作り方だって知っている。

あちこち病んではいるけれど、一応は五体満足だ。

ほれ、あと少しじゃあないか。

 

道作る人々は、立派な道具がなくたって、そのへんの枝や石を使って進んでゆく。

枝も石もなければ己の身体のみで切り開いてゆく。

情熱のため、夢のため、生活のため、志のため……理由はさまざまだけれど、道を作り続けることを決してやめない人間たちだ。

 

道を作れなくなった人、作らなくなった人にもそれぞれ理由がある。

それは誰かが取り沙汰して責めるようなものではない。

座り込んでしまうことは罪ではない。

だから、誰かが時機を見て優しく寄り添い、しばらくの間一緒に道を作ることも、ときには必要だ。

 

 

上記 パートナーの記事から

 

 

パートナーのブログの記事を今も読む。

自分の考えに縛られて、人の声が聞けなくなる。

そんな時に気持ちを解放してくれるのだ。

 

わたしはパートナーと作った道の続きを歩んでいる。