特発性過眠症と猫と

特発性過眠症と診断された筆者の病気の経緯と、一緒に暮らしている2匹の猫との暮らしの日記。終わりたいけれど、生きなくては、とも思う心の不安定な様を不定期更新しています。

生きていることに感謝していない自分にもまた今日も一日が与えられた|特発性過眠症と猫と

やりたい事、やらなければならない事はいくつもあった。

生活に必要なこと、差し迫って必要ではないがやった方がより暮らしやすくなるのでは、と思うこと、心が豊かになりそうでやってみたいこと、などなどリストにしたら結構な数になる。

 

しかし、どうにもこうにも気力がわかない。

 

正直なところ、生活に必要なこともままならない。

買い物をした物を片付けられない、シャワー浴びるのも億劫、掃除も洗濯も後回し、やっているのは仕事に行くことと猫のお世話だけ。

仕事中は他のことは考える隙間はなく、きちんとこなせる。

家に帰ってもこの調子ならなんでもできそうなものなのだが、家に帰ると途端にその糸はブツっと切れる。

休日はブツっと切れたまま、平日モードになることはない。

そんな中で、延ばし延ばしにしていよいよ、もうやらなくては後がない、例えば支払いとか、ということは渋々、もう本当に何時間もかけて自分に言い聞かせてやる。

こんな具合なのだ。

気付けばブログの更新も久しくしていなかった。日が経つのは恐ろしく早い。

 

特発性過眠症と診断され、苦しんでいるわたしにそれをブログにしたらいい、と勧めたのはパートナーだ。

わたしは知らない人たちに見られるようなツールで文章を書くなど出来ない、と言った。パートナーは、自分の覚書として、そしてどんな拙い文章でも同じ病に苦しんでいる人が見てくれて、それで同じく苦しんでいる人がいることで救われることがあるかもしれないのだからトライしてみたらいい、それによって自分の気持ちも楽になることがあるかもしれないし強制ではないのだからやめたい時にはやめればいいのだから。と言った。

そういう考えもあるのかな、と始めてみたブログだ。

 

わたしが続けられなかったとしてもパートナーはそれを責めたりしないだろう。

無理ならやる必要はないという気持ちは常にあるが、どんな手段でも何かを目に見える形にしてみることは時には大切だと思う気持ちもあるので、細々細々続けてみたいと思うのだ。誰かの為ではなく、、。

 

パートナーが唐突にいなくなってしまってから6年半経つ。

あの日から今まで生きてきたというか、死んでいないだけの日々を重ねてきた。

パートナーは自身の身体の一部であったのだと実感する。

私の身体は一部が欠損してしまった。

 

それでも「帰らぬ人」の事実を少しずつ受け止め猫たちと暮らしている。

 

去年、縁があって2頭の兄弟猫の里親になった。先住猫達も10歳を超えた。

わたしの部屋には猫しか居ない。

 

人間は感情が複雑だから付き合うのが難しい。

人間と協調して暮らすのが気力体力的に無理なのかもしれない、だから猫なのか。

よくわからないが、この4頭が今わたしの欠けた体の一部になってくれているのではないかと思う。

 

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若い猫兄弟は夜中明け方、ドタバタと走り回る。

寝ているわたしの顔の上を容赦なく駆け抜けて、もう子猫ではないから体重も5キロ、7キロを超える2頭なので、大概わたしは出血を伴う怪我をするのだが、またやってんのか。と心の中で呟きながら再び眠りに落ちる。

こんなにやかましいのが人間だったらさぞかし腹が立つだろう。

人間に対してだと、それくらいわかるであろうと思ってしまう、わたしに配慮しろ、という甘えの感情がまず働いてしまうからなのだろう。

汚い心なのだ。

 

 

睡眠外来にはしばらく行っていない。

薬は残っていないが、次の休みの日には病院に行こうと思っていても、休みの日には起きられないことと、感染症が流行り出してから外来に行くのも躊躇われたのもあり、自然に減薬、今は薬も底をつき全く服薬せずに暮らしている。

治ったわけではないのだろうが、それでも以前よりずっとまともに起きて仕事に行っている。

 

もちろん何もなかったわけではなく、寝坊したことも何度もあるし、その都度仕事の相方には、傷つく言葉を浴びせられた。

寝坊は最低、と言われるのは当たり前だとわかるが、人格を否定される言葉を浴びせ続けられるとさすがに落ち込んでしまう。

いっそこの病気の事を打ち明けようかともちらっと頭をよぎるが、そうだったのね、と言ってもらえる確率はゼロ%だろうし、そんな病気は聞いたことがない、なんでも病気といえば済むと思っているのは無責任な考えだ、それでも病気と言い張るのは自由だが、今行っている病院で治らないなら治る病院を探すべきだ、などなど言われるのはありありと想像がつく。

理解されることは彼女の性格上あり得ないと思うし、何であろうと迷惑をかけていることには変わりないのだし、出来ないのなら病気のわたしを雇ってくれる職場を探すべきなのだろうという気持ちも自分の中にある。

だから、申し訳ありません。気持ちを引き締めて今後失敗はしない様にします。

としか言わない。もちろん本心だが自信はない。

 

次の朝は起きられるのかと、眠る時には不安しかないから、最近は24時前には寝床に入る。

早く帰宅すればそれだけ早く寝ることが出来るので昼休憩も30分で終わらせたり、

まぁ薬を飲まずに日常が送れるならそれは良いことなのだと思ってはいる。

薬は本当にひどい時には勿論助けられたが、ずっと服用し続けると悪循環になりかねない、そんな気持ちがある。

早寝を心がけているこの数ヶ月は失敗はしていない。

こんな症状を持っていない人からしたら、おそらく特発性過眠症の人は寝ている時にさえ緊張を強いられているのではなかろうか。

 

なので、褒めてあげるべきだと思う。

今日起きられたのは運が良かったのもあるが、努力だってしている。

認めて欲しい。

 

こんな事を言っても何にもならないけれど。

 

当たり前と言われていることが当たり前に出来ない人がいる事を知って欲しい。

 

人は自分に置き換えて判断してしまうから、自分には考えられないことはあり得ない!としてしまう人も多い。

そういう事もあるんだろうね、大変だね、と言いつつも自分に負担がかかってくればそれは迷惑の他何でもなく、改善してほしいと思うだろう。

自分がそうだったら多分そういうふうに思ってしまうだろうから、それを酷いとは思わないけれど、他人と自分は違うということを忘れずに人と接することを心がけたい、と思う。

見えにくい事だが、自分はそれらをきちんと見て人と接したいと思う。自分にゆとりがないと、とても難しいことだけれど。

 

今日も何もせずに1日が終わった。

 

鬱の波がきている様だ。

リタリンが有れば、と思うが、あればあったでリタの力で動くので身体に無理がかかって今のリズムが乱れるだろう。

そう思うと自力でなんとかするしかない。

やる気スイッチなんてものはない、何か簡単な事でいいから始めてみるとエンジンがかかり始めて動ける様になる、とネットで検索したらそんな事が書いてある記事を見つけた。

でもその簡単なことさえ始める事ができない。

どうしたらよいのかな。もう考えることも億劫だ。誰か教えてくれないだろうか。

 

疲れた。

 

ハルシオンは切らしているから、今日はずーっと前に処方されたロヒプノールを飲んで悪夢の旅に出よう。現実逃避だ。

 

 

 

 

またの機会に。